昭和51年02月07日 朝の御理解
御理解 第60節
「おかげは受け徳、受け勝ち。」
折角朝の御祈念にお参りをするなら、やはり御祈念前にお参りをさせてもろうて、そしてまあ言うなら、お芝居で言うなら一等席というのがありますから、その一等席に席を取らせてもらう。同じ入場料を払うなら、矢張り良い場所でお芝居でも見たが良い。何とはなしに、おかげは受け徳受け勝ちというのは、そう言う様な感じが致しますですね。ね、もう後ろの方から拝んだり、後ろの方から、まあ今こうやって、あのマイクを使いますから隅々までお話が頂きますけれども。
もしこれがマイクがなかったら、後ろの方は御理解でも何でも聞こえんだろうと思います。御教えでも矢張りテープで頂くよりも、やっぱり生に頂いた方が。しかもそのお話をなさる、例えばここで言うなら私の、ね、もう息がかかるかからんばかりの所で、お話を頂いたが一番いいです。後ろの方に座っておったんでは、みんな前の人の後ろ姿だけしか見えません。ですから散漫になります。そすと眠気までついて来る。ね、所が一番前でこうやって頂いておる。
それこそ唾がかかるような。ね、本当の教えというものは、そういう風に膝付き合せてとか又は、こう唾が掛る様な所で頂かなければと言った様な言葉が、確かありますよね。だから同じ早起きしてやって来るなら、同じお初穂をさせてもらうなら、同じお賽銭をお供えさせてもろうてから頂くならば、そういう言うなら十分に頂いて帰れなければ、馬鹿らしいです。おかげは受け徳受け勝ち。なんかそういう感じのする御教えですね。もうずいぶん前の話ですけれども、北野の中村さんで、夫人総代さんですね。
まだ若くて元気がバリバリしておられる時分にある体験発表をされました。中々お話が上手ですし、信心もそれこそ生き生きとしていた時代の事です。開口一番こう言う事を言われました。私は皆さん思いますち。もうお参りはし儲けお供えはさせて頂き儲けという事を言われました。お参りのし儲けお供えのさせてもらう、お供えのし儲けだと。もうそれこそ大向こうから拍手喝采でした。ね、お参りのし儲けお供えのし儲けだと。一回でもよ余計参ったモンには勝たん。
少しでも余計お供えさせて頂けば、頂き儲けだと言うのです。これは私はその当時中村さんでなからなければ、まあある意味で言えない言葉だと思う。一生懸命にお参りも出けました。一生懸命のお供えも出けました。ね、私はいつもこの例をお話致しますように、あの時分の何十年前の五百円と言やあ、大したお金でしたよ。ささやかな商売をさせて頂きながら、そして毎日五百円のお初穂と言う事は、確かに大修行であっただろうと思います。それを何年間続けられて。
満願の日に丁度御本部へお参りをさせて頂いて、奥城でお礼を申し上げる時に、中村さんの事を頂いた。中村キクヨというキクヨとカタカナで書いてありました、大体はそれを喜び久しい世と。喜久世と漢字で頂いた。これからはアンタの名前は喜久世にしなされ。これは一つの御神格じゃと。神様が位を下さったんです。けれども御理解にこの喜久世の喜の字を外したら、後はくよくよになるよという御理解だった。
感激されましたですね。もう先生神様は見通しち。今日がその何年間のいわばどんな事があっても五百円ずつのお供えをさせてもらうという一つの修行です。取り組んで来たが、今日がその満願の日だって私は聞いてビックリしました。丁度その時に。ね、いかに神様がその修行を受けてござったか、その熱意を受けてござったか、そのお供えを受けてござったかという事が分かるでしょうが。
成程中村さんでなからなければ言えない事である。お参りのし儲け。これはもう当時毎月、月参りをさせてもらったが、もう親先生がおい出られる時には、絶対どこんでも絶対おかげを頂く。御本部参拝はもちろんの事。もうそれこそ御主人が今日、明日と言った様な病状の時でもです、ね、御本部月参りがちょうどその時に当たっておりましたから、これは、もう近所のモンでん誰でんビックリしましたよ。
中村さんばっかりは、もうこげな病人ば放うからちから御本部参拝さしゃるち言うてから。そういう一つの何か向こう行きが強いというか。神様へ向かう向かう力が非常に強かったです。所が中村さんの話を聞くと、おかげ話を聞くとどういう時であっても、ね、とにかくそういう勢いで向かいさえすれば、愈々お腹の中に固まりが出けて、ね、病院へ入院するために、布団の荷造りも済んで、そして中村さんの所にスリッパを買いに見えた方があった。して今日こげな事で家の主人が、もう入院するからっち。
どげんあってですかちこうこう。ならそれはちょいと待ちなさいち言うてから、自分がそこの家に行ってから、もう病院に入院して入院する用意、準備が出けておるというに、とにかく病院入院は止めなさい。いっぺん当時の椛目にお参りをしなさい、おかげを頂く。もう絶対私が言う事を聞くならおかげ頂くがのち言うちから、お導きをした。それから、あまりの熱意にとうとう、その人大変理屈の多い人でしたけれども、中村さんのその熱意におだされてしもうて。
それから病院入院は取り止めましてね、そして一生懸命一月目ぐらいには、中の固まりが取れてしまったです。そういう言うならば、あの迫力のある信心をしておられた時分の話です。一生懸命神様に向こうて行きゃあ、一生懸命お参りの修行をさせてもらやあ、一生懸命お供えさせて頂く。初めていわゆるお参りのし儲け、お供えのし儲けと言えれるほどしの信心を当時頂いておられた、ね。
中村さんじゃなからなければお供えのし儲け、お参りのし儲けと言う様な事は言えなかった言えない。ね、その実感がですならその体験発表の時にそう言う事を言われて、それこそ大向こうから拍手喝采でした。ね、一番まあ得意の絶頂の時分です。ね、婦人総代にもお取り立て頂いて。おかげを頂いて、ね、家土地を買われた。だけではない一間八畳のお神様の部屋を二階に作られておかげを頂かれた。ね。
例えば計算づくで行くなら、いくらその五百円ずつであってもですよ当時の。ね、おかげを頂くのはとてもそんくらいな事っちゃないからです。これはほんにあのそれこそ事のついでですけれども2、3日前でしたか。午後の研修の時にあの幹三郎が発表、あのしておる中に、お賽銭箱を大切にと言う所があったです。それどうしてそげな何がそのお賽銭箱を大事にかち言ったら、丁度高橋さんとこの奥さんが、お知らせを頂いてここでお届けをしよるのをここで、聞き自分聞きよったんです。
それはどう言う事かと言うと、お賽銭箱の御心眼にあの木札のような木が沢山入っておるところを頂かれた。そしてこちらにお杯がいわゆる三段組のヤツが、二つこうあるところを頂いて。どう言う事だろうか。こんなお知らせを頂いたという時に、その御理解を頂いておるのを、側で幹三郎が聞いておって、はあ成程だと言う事だった。お賽銭と言う事は、御承知でもありましょうけれども、あれは天地へ対する還元です。天地へ対するお返しなんです。
だからお寺さんに行った所でお宮さんに行っても、ね、例えば天満宮様にお参りをする、天満宮様にお供えするならまた別。けれどもお賽銭箱に入れるのは、あれは天満宮様じゃなくて、ね、いわゆる天地の親神様へ対する、あれは還元だと私は頂いております。あれは昔頂いた事です。ならここでもこうして皆さんがお参りになっておられますがね。なるほど、私はもうちゃんと、お初穂は沢山こうしてしよるから、もうお賽銭なんかは、もう素通りで来る人があるです。
こげな馬鹿らしい話はないです。それこそ今日の御理解。おかげは受け徳、受け勝ちですから。ね、ましてお賽銭箱というのは天地に対する還元。間違いなく天地へ還元が出けるほどしの意味を含んでおるものですから、ね、もしないならばそれこそこの葉の一枚でもお供えをするのがお賽銭箱です。ね、高橋さんが頂いておられるのはです、いうなら皆がお賽銭箱がそこにある事は心で心はある訳。
木はある気はある気だけは入れよる。ね。もう本当にお賽銭というものは、立ちながらどんポーンとやって、するもんじゃなかですだから。例え10円のお賽銭でもそれこそ、これは主人のためこれは家内のため、これは子供のためと言う様にです、一つひとつ惜し頂いて奉るのがお賽銭です。これは天地へ対する還元です。折角お参りをして、私だんお供えは沢山しよる。お初穂はこうしよるからとお賽銭もお供えせずに帰ると言う事は、こげな馬鹿らしい話はないです。ね。
言うならば、ね、三段の有り難き勿体無き、恐れ多きの三つ組のお神酒が頂けれるのに、一つ欠けとると言う事です。そういうお知らせをね、2、3日前でしたかね頂いた。それを横で聞きよって、はあほんな事信心するならお賽銭箱を大事にせにゃいかんと言う事を、幹三郎が書いとった訳でした。これなんかも矢張りおかげは受け徳、受け勝ちを感じますですね。馬鹿らしいです。そこでですたとえば中村さんのお話じゃないですけども、そういうお供えはし儲け、お参りはし儲けと言った様な勢いの信心する。
その当時に中村さんが受けられたおかげの事を思うて、成程お参りのし儲けだな、お供えのし儲けだなという事を感じます。ね、だからどんなにならお参りが出けたからと言うて、どんなにお供えが出けたからと言うて、そしてそれにそれこそそんくらいだんの事じゃないほどしのおかげを受けると言う事は、有り難いけれども、ね、けれども受け徳という事にはならないという事です。受け徳という事は、ね。得をするという得じゃありません。御神徳の徳と書いてあるです。ね。
そこでですなら御神徳を受けるもの。だからこの御理解はですね、おかげは受け徳受け勝ちという事は、ね、神様には勝てん。何とかんとか言うたっちゃ神様には勝てん、と言う事はどう言う事かと言うとね、お徳を受けた者には勝てんと言う事です。ね、どんなに馬鹿のごと言われよったっちゃです、お徳を段々受けて行きよる人には、最後には必ずシャッポ脱がにゃんです。ね、始めてこの受け徳という事が分かるでしょう。所謂お徳は受け徳受け勝ちだという風に頂かにゃいけんですだから。
お供えするからお徳を受けるっちゅう事っちゃありません。お参りをするからお徳を受けるちゅう事じゃありません。成程おかげは受けますけれど、ね。そこでですそういう信心をさせて頂いて、お徳は受け儲けである。お徳を受けた者には勝たんと言う様な、ならお徳とはどういう信心をさせて頂いたらお徳が受けられるかと言う事を、一つ根本においてからの信心のけいこでなからなきゃいけない。そこんところを根本においてからのお参りであり、お供えであって始めてお徳が受けられるのです。ね。
中村さんが頂いておられるように、喜の字を取ったら後はくよくよぞと。と言う様にです。ね。御信心をさせて頂くようになって、本当な事が分かり肉眼を置いて心眼を開けと仰るが、肉眼で見たら不平不足を言わねば成らん様な事だけれども、心の眼を持ってするならば、勿体無うしてお礼を申し上げる他にはないと言った様な事柄をです、もし愚痴を言い、不足を言い、したのであっては、ね、お徳はもうそれだけで消えますよ。はあ中村さんは良い御理解を頂いちゃったと思うです。
喜久世でも喜の字を取ったらくよくよじゃ後は。くよくよになったらもう言うならばお徳は受けられないと言う事です。ね、それこそ叩く手でさすれと言う事です。同じ例えば、ね、不平不足を言わねば成らない様な事であっても、その不平不足を言うその口で有り難うございますと、お礼を言えと言う事です。本当な事が分かったら、お礼言わなきゃおられない。そういう生き方を身につけてこそ、初めてお徳が受けられると言う事になります。61節にありますね。
神より金光大神にいつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞ、ね。信心しておかげを受けたら神心となりて、人に丁寧に話をして行くのが真の道を踏んで行くのぞと言う事になって来るのです。真の道を踏んで行くのぞと。ね、金光大神に尽きぬお話、尽きぬおかげ。これが、お徳という事です。限りなく、無尽蔵に頂けれるおかげ。ね、そういうおかげを頂いて、しかもそれを人に伝えて行く。
言うならば、合楽示現活動がそれです。の、御用に使うて頂きたいと言う様な信心させて頂くのが、神様へのお礼だけではなくて、それが真の道を踏んで行くのぞと言う事になるのです、ね。そこに至った時に、初めて、なるほど受け徳受け勝ちと言う事が愈々ハッキリして参ります。昨日の3時からの研修をさせて頂きます時に、皆さんがそれぞれの、まっ、頂きどころというかね、の、発表をされます。西岡先生がずっと自分のまとめてあるのを読んでおられた中にです、どうしたら信心が好きになれるかと。ね。
昨日は師匠の教えた事を忘れては、師匠は喜ばん。師匠から習うた事をです、本当に身に付けておかげを受けて、師匠さん貴方のおかげでとお礼を言やあ、師匠も喜び自分も得だという御理解でしたね。神も喜び氏子も喜び、金光大神も喜びじゃという御理解でした。ね、そこでその師匠その師匠の教えてくれると言う事をです、ね、それを受けて自分の物にするという、その自分のものにする事の為の精進。
信心が好きにならなきゃいけない。好きになるためには、こういう言うならば方法というか、こういう手というか、ね。それにはこういうちょっとした心掛けがいるんだという話を、昨日頂いたですね。その、どうしたら好きになれるかと。あの読まれた時にここん所にですね、おいさみがついたです。こう私がここで頂いたのは、カチッというのじゃなくて、そのカチッというのがね、こう角こう回るようなお勇みでしたよ。音がこう回るようなお勇みでした。
あら本当にねどうしたら信心が出来るか。どうしたならば神様に喜んで頂くような信心が出来るか。どうしたならばなら信心が好きになれるかと言う様な事が、いかに神様のお心か求めておられる事かと言う事が分かるでしょうが皆さん。ね、成程中村さんじゃないけども熱意がいる。ね、自分の我情我欲を取るための一生懸命の、ならお供えもさせて頂きゃ頂くがたある。ね。
その上にですただお参りが出ける、お供えが出ける御用は出けるというだけではなくて、その信心がですどうすれば、どういう信心をすれば神様に喜んで頂くか。本当に信心が好きにならにゃならんと、ね、好きこその物の上手なれであって、ね、折角お参りをすんならば嬉しゅう楽しゅう、有り難う出けるような信心が頂きたいと。そういう信心にはどういう信心をさせて頂いたなら良かろうかと言う所で神様が、ね、何かいきり立ったような感じで、お勇みを下さいました。ね。
私はどういう信心させて頂いたら神様に喜んで頂くかと言った様な、どうすればおかげが頂けるかではなくて、どういう信心させて頂いたら、おかげが頂けるかと言う所へです、焦点を置いて信心をさせて頂くと言う事が、受け徳と言う事になると思います。今日はおかげのおかげは、ね、受け勝ち受け徳。何とはなしに、ね、お芝居にでも行った。折角同じ入場料を例えば一等席なら一等席を買いましても、ね、お芝居になら必ず花道七三がこのような風に見える所。
まあ三枚目か四枚目ぐらいが一番最高の席と言われるが、折角お参りをするなら一番最高の所で。折角お参りをすんなら一番真ん前で、親先生の唾が掛かるごたる所で、お話でも頂かせて頂く為には、少し工夫しなければいけない。御免なさい御免なさいちゅうちから、前へ前さに出て来る訳にはいかん。ね、前の方に座ろうと思うなら、やっぱそれだけ早うお参りして来にゃ出けないようにです。
折角同じお初穂包んでからお供えをするなら、後ろの方からどん聞くよりかは、一番前で先生の表情がこう見える、分かる所で頂いたが良いと言った様な事も、何か今日のこの御理解の中に感じられますですね。折角参るならそれだけの所で頂かにゃ。同時に中村さんの例を取りました。ね、お参りはし儲けお供えはさせて頂き儲け。とそれが本当に実感として言えれるような、迫力のある信心。しかもその上にですもうどげな事があったっちゃ悔まんぞと言う様な生き方。ね。
いやどうすれば神様がお喜び頂けれるか、どうすれば信心が好きになれるかと言う所へ、愈々焦点を置いて、ね、その工夫をさせて頂くと言った様な信心がです、おかげは受け徳受け勝ちと言う事ではないでしょうかね。どうぞあっ昨日ね、あの研修の前に今日あの、昨日の研修したのを全部あの、マイクに取りました。ですから研修の模様が皆さんの発表した模様が全部入っております。
その中に私が一人ひとりあの講釈を入れております。だからもう本当にあの、若先生が後からそれを聞いてから、もうまさしくこれは合楽教学ですねと言うておりますように、非常に例えば昨日なら昨日の御教えが深められたり、広められたりして、皆さんが発表しておるのがありますから、時間がある方は頂いていって下さい。けれどもやっぱり小一時間掛かっておりますから、時間がない方は、また機会を得られ。
もうこれから毎日そういう風に、あのテープに取りたいと思うております。その冒頭に私がこういう話を致しております。折角ここで皆さんが信心の修行をしておるのだから、ね、毎日毎朝こうして御理解の研修をする、御理解を頂くという、ね、例えて申しますと、金光教の教典を紐解かせて頂くと、あまりにも簡潔と言うかまたは素朴と言うか、まあ悪口を言う人は、金光教の教典はたった、ほんなわずかな薄っぺらな教典が一つあるだけだと。それが金光教の生命だと。
しかも内容はまあ道徳的な話。または昔から言う勤勉的な事を寄せ集めたようなモンだといったような風に申します。ね、結局知らない人が言う訳ですけれども、なら実際なら教典を紐解かせてもろうて、それを今合楽で二十数年間、こうやって説きに説き明かさせて頂いておる所を頂かせて頂くと、もうそれこそお釈迦様も、キリスト様でも説き得てない。それこそ大変な素晴らしい御教えである事が分かる、ね。
だからそういう例えばなら、御教えをこうやって頂いておるのだから、ね、先ずこうやって御理解を頂く前に研修をする前に、ね。例えて御理解にこの宗教というものは、ね、人間の頭やら、いわばその哲学しながら生まれて来るという教えでは、宗教ではない。金光教でも〇〇先生なんという教学の大家の先生がおられました。その当時矢張りその先生の一つの思想と言うですかね。〇〇先生の言うならば、もう思想にいわば被れてしまうという人達が沢山出けるほどでした。
けれども先生自身がです、ならそちらの教会では人が助かってはいない。またその教えを頂いて勉強してる人達が大したおかげは受けてないと言う事実から言うてもです、いかにただ頭から練り出したと言った様な、ただ教学おかげの受けられない教学ではつまらんのだけれども合楽の場合はね、確かに合楽教学と言われるぐらいですけれども、必ずおかげが伴うの合楽の場合は。ね。
宗教というのはウ冠に示すと書いてあろうが。言うならば、天地天地の親神様から示されて、言うなら天地の親神様が教祖金光大神に、ね、神より金光大神に何時までも尽きぬおかげを話にしておくと仰るように、天地金乃神様直伝が、教祖金光大神が受けられて、こういう御教えになった。それはあまりにも素朴である。ちょっと見方を変えると、なるほど道徳的なお話であり。
または金言を寄せ集めたようにあるけれども、その底に秘められておる内容というものは、それこそ大したモンだと言う事を、例えば合楽で頂く御理解から言うてもそれがわかるのだ。その、教祖金光大神が天地金乃神様から直伝を受けられたその御教えをまた、なら私が神様からお知らせを頂いて深めて行くと言うのですから、まさしく宗教とは、神様から直接、ね、ウ冠が、ウが示すという。教えと書いて宗教である。
宗教とは、ね、神様直伝の教えでなからなければ本当の宗教ではない。言うならばそういう意味において本当の宗教を皆さんは身に付けて行っておる訳である。しかも、噛んで含めるようにこのようにして頂いておるのであるから、その事が先ず有り難いと心得て研修しなければいけないよという事を、昨日私、冒頭に話しとるんです。皆さんでも同じです。合楽の場合は皆神様からお知らせを頂いて。そして教祖の御教えを深める、広めるね。頂いておるのですからもう絶対のものなんです。ね。
これを有り難く頂いて帰ればです、それこそおかげは船にも車にも詰めぬほどの神徳が中にあるのです。それを行ずればおかげにならんはずは絶対ないのです。そういう御教えを日々頂いておるのですから、ね、そのそういう御教えが合楽では頂けれると言う事を有り難いと、先ず先に思うてお話を頂かなきゃいけないよ、研修しなければ
(テープ切れ)